▶ 青春の軌跡
■全国港湾労組委員長だった父
私は昭和25年2月、両国緑町で生まれた。新潟で生まれた母は小学校を出るとすぐに、両国の緑屋という由緒ある髪結いに丁稚奉公に出されたそうだ。私が生まれた当時は伯母と美容院を経営していて、シベリア抑留から帰国した父と見合い結婚した。父は、旧帝国陸軍大佐で獣医をしていた祖父の長男として生まれた。帝国倉庫運輸という海運会社に勤めていたが、組合活動に熱心で、原潜入港反対などのデモに参加し、ドロドロになって帰ってくるものしょっちゅうだった。
その後、父は労組の中でも過激派と言われる全国港湾労組の委員長となり、私が小学校4年のときには、毛沢東に招待され中国を訪問した。当時まだ珍しかったジェット機で飛び立つ父を晴れがましい気持ちで見送ったものだが、父が持ち帰った豪華な土産や盛大な宴会の写真を見せられて、何かおかしいと感じたのをよく覚えている。労働者の味方だと言って、いつも「起て、飢えたる者よ」と歌っていた父の姿と現実とのギャップを子ども心に感じたのだと思う。
■中・高時代はバレーボール一筋
小学校時代のもう一つの思い出は療養生活だ。歯医者だった伯父の結核が私や従兄弟みんなにうつってしまい、沼津の療養学校で約3年を過ごした。母とは月に一回くらいしか会えないし、いじめられて布団巻きにされる(従兄弟たちまでいじめる側に回った!)など寂しい思いもしたが、このときに不屈の精神が養われたのかもしれない。
結核が治ると両親は環境のよいところをと考え、当時住んでいた新橋からまだ田畑が広がる世田谷区祖師谷に引っ越した。当時北区と二ヵ所にしかなかった、東京都住宅供給公社のいわゆる「下駄履きアパート」の抽選に当たり、母は一階で美容院を続けることができた。この下駄履きアパートの後日談だが、30年近く住み老朽化したので、公社に2階建を4階建に建替えてほしいと交渉に行ったところ、担当から「30年も儲けさせてやったのに、この上まだ欲をかくのか」と言われたことがある。私はこれが役人の言うことかと思い、この体験は行政のあるべき姿を考える原点になった。
その後、祖師谷小学校から中高一貫の駒場東邦に進学、バレーボール一筋の生活が始まった。監督がやり手だったこともあり、東京オリンピックが開催された中3のときには「東洋の魔女」の大松監督に掛け合って、全日本代表の球拾いをするという貴重な経験もできた。チェコやソ連の練習も見ることができ、超一流の6人制バレーに接したことが、高校のときに都内ベスト2に勝ち進む大きな要因になったと思う。
一方、勉強はというと、213人中200番台という体たらくで現役の大学受験は全滅。このときは慶応をバレーボールの体育会推薦で狙ったが、ちょうど全日本優勝した広島・崇徳高校のセッターとかち合って駄目になった。結局、一浪のときに明大のアメフト部から声がかかったこともあり、明大に通い始めたが、部員のほとんどは夜学で、昼間大学に行っても仲間はいないし、キャプテンとはケンカするしで全然面白くない。ある日、親からもらった後期分の授業料を納めに行ったら、大学が学園紛争でロックアウトされていて、ガードマンにこづかれ、頭にきた勢いで授業料を高田馬場の予備校に納めてしまった。
■念願の慶大に入学しアメフト部に
慶大の卒業式で
どうしても慶応に行きたかったのは、幼少時に母の裁縫箱に慶応のペンのバッジが入っていて、「これ何?」と聞いたら、「お前も将来、これをつけられたらうれしい」というようなことを言われ、それが純粋にあこがれになったのだと思う。
予備校での受験勉強はさすがに後がないということで必死にやった。さらにラッキーなことに、慶大でアメフトをしている高校の先輩が体育会推薦で受けてみろと薦めてくれ、二次試験は体育会推薦で合格することができた。
慶応でアメフト部に入った私だが、同期のラグビー部にいた武見敬三氏(現参議院議員)と出会う。昭和49年の卒業後、私は荏原製作所に就職したのだが、武見氏の姉が麻生太郎氏の弟(麻生泰氏)のところに嫁いだ縁から、5年後に太郎氏が衆院に出る際、福岡に来ないかと誘われた。私自身は麻生セメントに入り、福岡で骨をうずめるつもりで行ったのだが、半年も経たないうちに太郎氏の父、太賀吉氏(吉田茂元首相の娘婿で元衆院議員)が亡くなり、東京に呼び戻されることになる。そして、「麻生セメント社長秘書」「同会長秘書」「麻生太郎衆院議員秘書」の三枚の名刺を渡されて、運転手に陳情にと走り回る生活が始まった。
■地方政治への一歩
このまま麻生氏のもとで働いていくのかと思うようになっていたが、麻生氏が始めた東京の英会話学校の社長を務めることになった。これはセメント事業もジリ貧ということで、多角経営の一貫で始めた事業だった。世界中の貴族や富豪がクイーンズ・イングリッシュを学ぶイギリスのベル・スクールと提携するという発想はよかったのだが、なんせ契約条件が悪すぎた。開校式には英国大使も出席し、日本の御曹司が軒並み生徒になるという華々しいスタートだったが、結局2年もしないで事業精算することになり、私が代表精算人となった。目の前で刃物を出して金を要求するような外人講師もいて、会社を閉じるまで本当に苦労した。
そんなこともあって独立しようと、平成元年、免許を取得していた宅建業の会社を立ち上げた。最初に開業したのが世田谷区の玉川地区であり、現在も取引主任士として宅地建物取引業協会の顧問をしている。バブルの追い風もあって経営も順調だったが、平成4年に、麻生時代の仲間が来て、来年、都議選があるから出てみろという。秘書をしていたこともあり、独立後も陳情を受ける機会も多く、出馬を決心した。
そこで、麻生太郎衆議院議員に相談したところ、次の都議選(平成5年)は日本新党が大ブームになるから、まずそれでバッジをつけろと言われた。早速、高輪のホテルで細川護照氏(元首相・当時日本新党代表)と会ったところ、石井紘基氏(元衆院議員・故人)に会えと言う。しかし会ってみると、国旗、国歌をはじめ、国のあり方に対する考えがまったく異なり話が合わない。これでは駄目だということで、自民党でいくことにした。
地盤・看板のない無名の新人にとって自民党の公認をとれたのは奇跡に近かったが、旧小坂派(故小坂徳三郎衆院議員)区議会議員に擁立してもらい立候補した。結果は麻生太郎議員が一言ったとおり、日本新党ブームが沸き起こり涙を飲んだ。中小企業診断士の資格は、この浪人中に取得した。中小企業診断士の資格は当時「足の裏についた米粒」取っても喰えないと言われたが、今日では商店街や地域の相談業務、コロナウイルス対策給付金等の申請手続きにも携わり、私の活動の核となっている。
捲土重来の戦いはつらかった。とにかくお金がなくて、昼にアジフライ2枚を半身に分け、妻と弟、秘書の4人でタイ米を炊いてしのいだこともあった。そんな苦労も平成9年の都議選で何とか報われたが、つらい時代に面倒見てくれた方々の恩はいまでも忘れない。
■スポーツが培ってくれた財産
慶大では体育会アメフト部に打ち込む
(66番が私)
いま振り返ると、私にとって小学校での野球、中学・高校でのバレーボール、大学でのアメフトと、スポーツ、とくに集団スポーツで培ったものが、いかに大きかったかと思う。肉体、精神力はもちろん、いろんな縁もつくってくれた。それが、いまになってすべて生きている。先にふれたように、武見敬三参議院議員と出会ったことは私の人生を変えたが、その父の武見太郎先生(元日本医師会会長・故人)の薫陶を受けた経験も大きな財産だ。当時学生だった私はしばしば武見家に遊びに行ったが、敬三氏がいなくても、よく相手をしてくれた。あるとき黒塗りのベンツで帰ってきた先生がイタリア料理を食べに行こうと誘ってくれた。私はベンツで行くものとワクワクしたが、先生は「君の車で行くんだ」と私の真っ赤なカローラに乗り込んできた。公務とプライベートをしっかり分ける姿勢に感動したのを覚えている。ほかにもお世話になった方は数知れず、こうした思を忘れずに今後も活動に生かしていきたい。
三期日の選挙の翌年、平成18年1月末に胃がんが発見された。ちょうどゴルフをしていて、午後のラウンドのときに携帯が鳴って、友人の医者から宣告された。頭が真っ白になったが、周りの人には言えないので、そのままプレーを続けた。おかしなもので直後にパー、パーと続き、3ホール目のショートホールではあわやホールインワンかというバーディをとり、はからずも人間、無心になるといかに強いかを思い知ることになった。もっとも終わり頃は妻にどう報告しようかと思ったとたんパターを空振りした。2月7日に全摘手術を受け、術後に痛い思いもしたが、2ヶ月後にはゴルフも再開、いまでは体力も回復し、改めて健康に感謝している。
私を応援してくれているのは町場の中小企業の人たちであり、中小企業対策は私のライフワークだ。その現場こそが政治の実態であり、勉強の場である。地域に密着した区議会議員の同志と共に活動できることは私の強みであり、原動力である。
■これからの活動
- 都議会自民党医療政策研究会会長として、コロナウイルス感染症に代表されるパンデミックの広域なウイルス撲滅に向けて検診・診療施設の整備に取り組みます。
- 未曾有の集中豪雨対策として、雨水排水施設の拡充整備に取り組みます。
- 高齢者施設の充実と保育事業の質の向上に取り組みます。
- 消防団運営委員として、街の安心安全を守ります。
- これからも「地域密着身近な都政」の政治姿勢を貫きます。